当寺の所在する喜連(きれ)は「住吉の東一里許に喜連村というあり、河内の堺なり。
昔は河内に属して万葉に河内国伎人郷とある処なるを久礼(くれ)を訛って喜連というなり」と『古事記伝』にも言及されている古い地名である。如願寺も当初は「喜連寺」として創建された。
伝承によれば、用明天皇の時代、聖徳太子が仏法興隆の地として当寺を建てたと言われている。
かつて西には阿弥陀寺、東に弥勒寺、南に薬師如来をまつる湯谷寺、その他別院として橋本寺・松本寺・善法寺・高野寺を擁する大伽藍であったという。
その後堂宇は縮小したが、230年後の 弘仁8年(817年)、空海(弘法大師)が高野山巡錫のみぎり、この霊場に詣で、その衰退を悲嘆し、杖を立てそれが朽ちないうちに再建の願いを立て上京し、勅許を蒙(こうむ)って来てみると杖は植木の如くになっていた。弘仁11年、諸堂を再建し、この時「如願寺」と寺名を改め、脇侍不動明王・毘沙門天を自作安置し、鎮守堂を建立したという。
水かけ
一願不動尊
茶室
寺務所
庭園 冬季はお休みしています
四季おりおりの花をお楽しみください。
御本尊・聖観世音菩薩
欅材の一木彫成。
聖観音立像の通有の像容で右手は体側に沿うて
垂下し与願印を作り左手は後補の蓮蕾を把持し
胸の高さまで上げている。
右手の指端と腕の関節から手掌までの部分とが
後補であるほかは原状を止めている。
衣紋の表現は全体に浅いが弱いながらも翻波の
趣致をうかがうことができる。正面観は細身で
腰を左に捻じり、裾を張らせている点が印象的
である。側面観は正面観に比して意外に重厚の
感があり腰奥なども深い。極彩色ではないが
色彩仕上げであり裳の文様は格子の中に簡略化
した花菱文、あるいは梅鉢文を散らしている。
平安時代前期の末頃の製作と察せられる。
総高205㎝
通常厨子の扉は閉じられていますが、8月9日10日の千日會では
開扉され、手元に結縁綱という五色の紐が結ばれます。
綱に触れることによって観音様とご縁を結んでいただけます。
大阪府指定有形文化財(彫刻)
如願寺木造色彩聖観音立像
指定年月日昭和46年3月31日
大阪府教育委員会
木造地蔵菩薩
寄木造だが体部の根幹は、ほぼ一木造。
細く切れ長の眼、ふくよかで小振りの唇、
丸みを帯びた頬、穏やかな面相を示す。
浅い彫り口の上品な衣文には作者の優れた
彫技がうかがえる。
なで肩だが堂々とした体躯で、体奥はさほど
深くない。白土下地の彩色が良く残る。
平安時代後期に流行した、腹前には裙
(はだぎ)の結び紐が覗く、いわゆる
「腹帯地蔵」の形式をとり前述の面部の
穏やかな表情、上品な衣文、動きを抑えて
足を揃えて直立する姿は、定朝様の特色を
顕著に示している。
平安時代、12世紀後半の製作と考えられる。
大阪に残る古い地蔵菩薩の古い事例であり、
平安時代後期の貴重な史料である。像高91.2㎝
本堂内陣に向かって右側に安置されています。
末頃の製作と察せられる。
大阪市指定有形文化財(美術工芸品)
木造地蔵菩薩立像
指定年月日 平成25年3月31日
大阪市教育委員会
密教儀軌
法量 : 各16.6×16.4cm
大阪市指定有形文化財 部門(歴史資料)
指定年月日 平成二十二年
大阪市教育委員会
長享7年(1494年)〜元和7年(1621年)
室町時代・江戸時代 筆写
密教儀軌は、真言密教の諸仏を本尊にして、
修法の誦文や次第、マントラ(真言)祈願の
手順、諸尊や法具の配置など、修法にかかる
すべてを書き記したもので師から弟子に
秘儀とともに相伝される。
如願寺に伝来する史料は、第18代住職土井
乗慶が醍醐三宝院の随心院執事宥照から一括
してもたらされたもので、奥書から元和七年(1621)に高野山で下野国足利庄名草郷の
住人甚宗房によって書写されたものである。
室町、江戸時代初期に遡る一括した聖教史料は
市内では極めて珍しい。
寺では「尊法の次第」と称される。
如願寺ではこの儀軌のうち「当年星儀軌」
および「北斗儀軌」を用いて、現在も毎年2月
3日に星供の修法を行っており、仏教民俗の
生きた史料としての側面もあわせ持つ。